こだわり歴史塾

私が調べた人物の歴史を中心に、歴史の事を書いていきます。

頼朝の源氏弾圧

源頼朝は弟たちだけではなく、同族の清和源氏一門にも妥協のない態度で接し続けた。 特に甲斐源氏の武田氏一門は、源頼朝に厳しい目を向けられ続けた。 武田信義とその子、一条忠頼、板垣兼信、武田有義らである。

頼朝と義経と範頼

源義経はその軍事的な才能は、この当時では群を抜いている。 平家追討でも、最大の功績をあげている。 しかし兄の源頼朝との関係において、最もしくじっているのも義経だった。

朝廷と距離を置き続けた、源頼朝

源頼朝は鎌倉に本拠を決めて、東国武士達を率いてから、朝廷に対して慎重な態度を取り続けます。 富士川の合戦で平家軍を破り、京へ進撃しようとしますが、関東に引き返す態度もそうです。 これは倶利伽羅峠の合戦で、平家軍を打ち破り、破竹の勢いで京を目…

頼朝政権の正当性の変遷

幕府というのは、もともとは「将軍が戦争の時に拠点とした陣営」というのは、前に記事で書いた事があります。 つまり将軍の御座所。住んでるところ。いる空間を指します。

東国武士と源頼朝〜思惑の違い〜

鎌倉幕府は東国の、関東の御家人を中心とした政権で、最も重要な課題は、彼らの土地問題を調停、解決する事です。 それは御家人達の希望だったのです。

「守護・地頭制」〜文治の勅許と政治家・源頼朝

守護・地頭制と一口にいうが、時代と地域によって役割はさまざまで、理解が難しい。 ただ所謂、「守護・地頭制」にとって、画期となったが、後白河上皇に源頼朝が強硬に要求を突きつけ、認めさせた、文治の勅許です。

寿永二年十月宣旨

木曾義仲が平氏を追っ払い、京都に入ると後白河法皇は、平氏追討の院宣と平家没官領を与えた。 義仲は源頼朝に先立ち、京に入り有利な地位を占めたかに見えたが、平氏追討で失敗し、京での乱暴狼藉で孤立してしまっていた。

鎌倉幕府は「幕府」ではなかった。幕府とは?

鎌倉幕府、室町幕府、江戸(徳川)幕府とありますが、では「幕府」とは、なんなのか? 幕府とは、「中国で将軍が戦争の時に拠点とした陣営」です。 つまり場所や空間を指す言葉だったのです。

鎌倉幕府の成立とは?

鎌倉時代とは、、、 源頼朝が鎌倉に、京都の天皇を中心とした公家達による政権とは別の、武士達による政権が成立したことから、始まる時代だと思います。

鎌倉時代のいくさ〜弓矢がメイン

承久の乱では、幕府側の圧勝で終わったが、この時代、武士達はいったいどういう戦をしていたのか? 有効な武器、戦闘の主体は弓矢であった。 刀は、弓矢ほど有効ではなかったようだ。

安芸国にみる、東国武士達の西国への流入

承久の乱後、後鳥羽方の所領、約3000カ所も没収され、戦功のあった武士達が、その土地に新たに地頭として任命された。 時代は遡りますが、源平合戦後に、平家方の所領も、約500カ所没収され、源氏に味方した武士達にその土地が与えられた。

意外と少ない御家人の人数

御家人は、もともと鎌倉殿(鎌倉幕府の将軍)の直属の家来です。 鎌倉武士団の中のエリートでした。 では、何人いたのか?

「御家人」の発祥

御家人とは、、、源頼朝からはじまる「鎌倉殿」、つまり鎌倉幕府の将軍との間に主従関係を結んだ武士を「御家人」といいました。 もとを辿ると、貴族や武士に奉仕する従者を「家人(けにん)」といった。

【最強のナンバー2】北条義時・後編〜御家人内部の争い、承久の乱に勝ち抜く

畠山重忠の乱では、討伐しますが、北条時政の謀略に不満だったといいます。 この事件が北条義時・政子と北条時政・牧の方の対立が顕在化します。

【家子専一】北条義時・前編〜頼朝の側近NO1

伊豆国で北条氏の本拠地のすぐ隣の土地に、 「江間」がある。 その土地を所領とした江間氏の初代、江間義時は北条時政の次男である。 姉には北条政子がいる。

【幕府武官のトップ】和田義盛

和田氏は相模の三浦氏の支族である。 本家の三浦氏には、のちに和田義盛と同じく13人の合議制の1人になった、三浦義澄がいる。義盛にとっては叔父にあたる人である。

【文官の長老】三善康信

三善氏は元々は漢族系の渡来人といわれる人々で、律令制の中では算道をなりわいとした、下級貴族だった。 三善康信も下級貴族であったが、自分の母親が源頼朝の乳母の妹という縁故で、頼朝が伊豆に配流された時、10日に1度ずつ使者を送っては、京都の情勢を…

【誇り高き長老】三浦義澄

相模の三浦半島に大規模に力を持っていた三浦氏は、前九年、後三年の役で東北で活躍した源頼義、義家の代から源氏の家臣で、頼朝も挙兵の際には三浦氏に大きな期待をかけていた筈である。

【初代執権】北条時政〜策謀の執権、最期は自分の子に隠居させられる

北条氏は決して大きい豪族ではなかった。 平氏の血を引くとされるがはっきりはしません。

【源氏四代に仕えた名門】八田知家

八田知家は下野国国司の名門の宇都宮氏の出身で、源義朝〜実朝まで4代に仕えた。 保元の乱から源頼朝の父・義朝に従っていた。 頼朝の乳母寒河尼の兄弟でもありました。

【有能な頼朝の側近】二階堂行政

二階堂行政は、京の公家藤原南家の乙麻呂流の出身である。 大江広元や三善康信、中原親能らよりは、公家しては家格の高い家柄であったが、同じく京から鎌倉に下って、幕府の官僚として活躍した。

【鎌倉最有力御家人】比企能員〜北条氏のような幕府の事実上の権力者になり損なう

頼朝が最も信頼した一族といえば妻の実家である北条氏と思うかもしれないが、実際は乳母の実家である比企氏であった。 平安時代から鎌倉時代は乳母の力が強い時代でした。 ひいては女性の力が強い時代だったのです。

【頼朝の懐刀】梶原景時〜頼朝を最も理解した男、後ろ盾を失い没落

『愚管抄』に「鎌倉の本体の武士」、源頼家の「一の郎党(第一の側近)」と記された梶原景時は、源頼朝には最も信頼された臣下だった。 「懐刀」と言ってもいい存在だった。

【源氏の宿老】足立遠元

足立遠元は源義朝ー頼朝ー頼家ー実朝と4代にわたって仕えた。 安達盛長の甥にあたるが、年齢は上であった。

【流人時代からの頼朝の忠臣】安達盛長

京都の二条院に「無双の歌人」といわれる女房がいた。惟宗広言という歌人と通じて、子を1人生んだが、別れ関東へと下った。 関東へと向かった理由は、両親・一族がいるからでもあり、母が支援する源頼朝がいたからでもある。

【対朝廷-交渉人】中原親能

中原親能の父・中原広季は明法博士である。 貴族の下級官僚の子であった。 弟には後に鎌倉幕府で共に勤める、大江広元がいる。

【幕府の知恵袋】大江広元〜子孫は戦国最高の知将・毛利元就

鎌倉の武士で、文書を読めるものは少なかったという。 そんな鎌倉武士を率いた、源頼朝の優れたところは、政権作り当初から文章作成を担える文官を京都の下級貴族からスカウトしていた事だ。 彼らのことを「京下貴族」ともいう。

【鎌倉】13人の合議制。構成メンバーの顔ぶれ

将軍として力を奮い「独裁者的な」源頼朝が急逝しました。 その鎌倉殿の地位を継承した当時、まだ18歳での源頼家から、その力を剥奪するために、重臣たちの合議制(13人の合議制)で幕府を運営する事を決めました。 そのメンバーが13人、

松波庄五郎②〜土岐氏内紛〜長井新左衛門尉へ

松波庄五郎が西村勘九郎正利→長井新左衛門尉と名前を改めていた頃、主家の土岐氏では跡目争いが勃発していた。 守護の土岐政房が、嫡男である土岐頼武ではなく、次男の土岐頼芸を後継に推したからだ。

松波庄五郎〜初代・斎藤道三

日本人にとって昔から毒蛇として名高い「蝮(まむし)」 その名を冠された戦国大名がいました。斎藤道三。