頼朝政権の正当性の変遷
幕府というのは、もともとは「将軍が戦争の時に拠点とした陣営」というのは、前に記事で書いた事があります。
つまり将軍の御座所。住んでるところ。いる空間を指します。
その意味で、鎌倉幕府は3つありました。
①源頼朝が大倉郷に新邸を作った大倉幕府(1180-1225)
②4代将軍藤原頼経が執務した宇都宮辻子幕府(1225-1236)
③4代将軍藤原頼経から最後の9代将軍守邦親王まで続いた若宮大路幕府(1236-1333)
頼朝が大倉幕府を開いた日は、御家人は311人も集まり、頼朝を「東国の主」に推しました。
頼朝自身、以仁王の令旨によって、自分自身の東国支配を正当化していました。
頼朝挙兵のきっかけにもなった、以仁王の令旨では、かつての壬申の乱になぞらえていました。
以仁王自身を大海人皇子、高倉上皇を天智天皇、安徳天皇を大友皇子と。
令旨には、平家に担がれている高倉上皇と安徳天皇を討って、以仁王が皇位につくと宣言していました。
以仁王は撃たれてしまいましたが、頼朝は令旨を自身の東国支配の正当化に利用し続けます。
高倉上皇や安徳天皇の京都政権、それを担ぐ平家達とは、妥協をするつもりはないという事で、東国政権を固め、東国の主としての道を歩みました。
頼朝を支える東国御家人達も、それが最大の望みでもありました。
そこに変化が生じるのが、源(木曾)義仲の上洛でした。
義仲が京都で略奪や粗暴な振る舞いが多いと言われてもいますが、実はこの頃、頼朝は後白河法皇と連絡を緊密に取り合い、義仲の立場を悪くしたのも大きな原因なのです。
京都の情勢は変わっていました、高倉上皇はすでに亡くなり、安徳天皇も平家とともに都落ちしていたので、いまさら以仁王の令旨は正当性を失っていました。
そこで後白河から頼朝に出されたのが、寿永二年十月宣旨です。
これによって頼朝による、東国の支配権を認められたのです。
朝廷からの公認で、もちろん頼朝政権にとって新たな正当性となりました。
こののち頼朝は朝廷に、源義経を追討する為、守護・地頭の設置を認めてもらいます。
さらに頼朝は朝廷改革に乗り出します。
頼朝が推薦する10人の議奏公卿の合議。頼朝が信頼する公家・九条兼実を内覧に推薦、、、からの摂政就任と後白河法皇の権力に規制をかけました。