こだわり歴史塾

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「守護・地頭制」〜文治の勅許と政治家・源頼朝

守護・地頭制と一口にいうが、時代と地域によって役割はさまざまで、理解が難しい。

 

ただ所謂、「守護・地頭制」にとって、画期となったが、後白河上皇源頼朝が強硬に要求を突きつけ、認めさせた、文治の勅許です。

 

 

 

内容を言うと、頼朝に反抗している勢力、源義経・行家を捜索するために、諸国に総追捕使(守護)・地頭を設置することを、朝廷が幕府に認めたというものです。

 

ちなみに守護も地頭もこれ以前から、ありました。では何故これが画期だったのかは、これにより全国的な政権となるきっかけを掴んだからです。

 

平家を倒したことで、全国的な政権になったのは大間違いで、これ以前までは、寿永二年十月宣旨によって認められた東国政権に過ぎなかったとも思えます。

 

まだ奥州藤原氏が健在なのですが、頼朝が全国政権に近いものを構想していたのは、確実と言っても言い過ぎではないと思います。

 

ほとんど全ての関東の有力御家人達は、全国的な政権を、目指してはいなかったでしょう。彼らは関東の事ばかり気にしていたと思います。

 

この段階で、頼朝が全国規模で政権を考えていたなら、すごい構想力で、それも源義経や行家討伐を口実にやる訳ですから、物凄い政治家だと思います。