こだわり歴史塾

私が調べた人物の歴史を中心に、歴史の事を書いていきます。

古代日本の感染症は仏教がもたらした?

現在、日本は新型コロナウイルス(COVIDー19)に悩まされ続けている。

この状況は一体いつになったら収まるのか?

 

古代日本も感染症に苦しんだ時代ともいえる。

 

この時代にはウイルスの存在も科学的見解も、ましてワクチンなどない時代である。

 

 

古代日本は大陸の中国や朝鮮の国々と本格的に交流を始める。その中で沢山の渡来技術や文化が流れ込んできた。その中でも重要なものの中に「仏教」がある。

 

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官打ちと死の予感

「官打ち」という言葉は今も使われる言葉で、分不相応な官職につけることで相手がそのプレシャーに負けて、命を縮めるという一種の呪いです。

 

後鳥羽上皇源実朝に対して、仕切りに官位を薦め、実朝は権大納言、兼左大将、内大臣と昇進して、27歳にして右大臣へと異例の出世を遂げていった。

 

 

 

後鳥羽上皇南都北嶺に対しても、北条義時を呪詛する事を命じているので、実朝に対して呪いをかけていても不思議は無いでしょう。

 

 

ある時、北条義時大江広元を招いて相談をしました。

「かつて源頼朝は朝廷から官位を与えられるたびに固辞してきた。それは子孫に良い運を残すためだった。それなのに実朝はまだ若いのに昇進が早すぎて心配している。広元に諫めてもらいたい」

広元もそれに賛成して、義時の使者として御所に向かった。

 

広元は実朝に対し、

「子孫繁栄を願って、征夷将軍のみに止め、歳をとってから大将を兼ねてはどうか」

と諫めた。

すると実朝は、

「広元のいうその趣旨には感心したが、源氏の正統は命運を縮めており、子孫が継ぐということはないだろう。それならば飽くまでも官職を頂いて家名を挙げたいのだ」

と言ったので、広元は何も言えずに、義時に報告をしたといいます。

 

すでに自分の命運と、源氏の嫡流の行方を予言したような発言をしています。

 

事実、承久元年(1219)、右大臣任命の儀式で鶴岡八幡宮に赴いた実朝は、兄・頼家の遺児・公暁の手で殺されることになります。

鎌倉3代将軍・源実朝の渡宋計画

治承4年(1180)平氏によって東大寺の大仏殿が焼かれました。

 

しかし翌年すぐに復興が開始され、重源が造営のための勧進(かんじん)を始めた。

 

勧進とは、寺院の修理や建立のために、人々に仏教の教えを説いて、費用の寄付を集めることです。

 

現在の東大寺は戦国時代に焼かれてしまい、この時に復興された大仏も大仏殿も残ってはいないが、南大門や金剛力士像は今も残っています。

 

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女人入眼の日本国

「入眼」とは、絵を描いた時に最後の仕上げとして、眼を入れることで、そこから転じて、物事の仕上げ成就意味で使われる言葉です。

 

つまり「女人入眼の日本国」とは、「日本国の仕上げるのは女性ですよ」、という言葉で、これは慈円の『愚管抄に出てきます。

 

慈円天台宗の僧で、仏教界のトップといてもいい天台座主に就任しました。そして歴史書愚管抄』を書いた当時の歴史家、思想家としても最高峰の人間でした。

 

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女性が強かった時代

平安末期〜鎌倉時代は女性が政治・軍事の世界で活躍した時代でありました。

 

平安末の待賢門院璋子、美福門院得子、祇園女御

源平合戦期の巴御前、板額(はんがく)。

鎌倉時代丹後局(高階栄子)、北条政子、藤原兼子。

 

この女性たちはあくまでほんの一部で、歴史書に名前を残す女性は他にも沢山います。

 

 

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頼朝の乳母たち

源頼朝には複数の乳人がいたことがわかっています。

 

比企尼寒河尼、山内尼、三善康信の伯母にあたる女性の4人です。ただ三善康信の伯母は前の4人の誰かと同一人物ではないかとも言われています。

※あと摩々尼という乳母もいたといいますが、あまりはっきりせずに山内尼と同一人物とも言われています。

 

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