鎌倉時代のいくさ〜弓矢がメイン
承久の乱では、幕府側の圧勝で終わったが、この時代、武士達はいったいどういう戦をしていたのか?
有効な武器、戦闘の主体は弓矢であった。
刀は、弓矢ほど有効ではなかったようだ。
『吾妻鏡』によると、筵田の戦い(美濃)では、朝廷の軍は楯を構えてしきりに矢を射掛けたのに対し、幕府軍は射戦で応じて、相手を撃ち破っている。
瀬田の戦い(近江)では、朝廷軍は唐橋の中ほど橋板を外し、「楯を並べて鏃を調(そろ)え」て待ち受け、幕府軍も「戦を挑み、威を争う」とある。
宇治の戦い(山城)では、朝廷側は宇治橋を守って「矢石を発つこと雨脚のごとし」とあり、それに対して幕府側の北条時氏(北条泰時の子)らが、川を渡り、「旗を揚げ矢石を発」ち、本隊もこれに続いて朝廷軍を撃破した。
朝廷側は多くのものが討たれ、他の者も「弓箭を忘れて敗走」した。
これは承久の乱だけでなく、乱前後の源平合戦、蒙古襲来による元寇と、戦の武器は弓矢が主役で、刀や薙刀はそのあとだったようです。