こだわり歴史塾

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松波庄五郎②〜土岐氏内紛〜長井新左衛門尉へ

松波庄五郎が西村勘九郎正利→長井新左衛門尉と名前を改めていた頃、主家の土岐氏では跡目争いが勃発していた。

 

守護の土岐政房が、嫡男である土岐頼武ではなく、次男の土岐頼芸を後継に推したからだ。

 

 

ちなみにこの時、新左衛門尉は直接の主、長井長弘とともに、頼芸に仕えていた。

 

守護代の斎藤氏も甥と叔父が双方に分かれて、ついに激突することになる。

 

 

 

土岐氏跡目争い】

土岐頼武     土岐頼芸

斎藤利良  vs    斎藤彦四郎

         長井長弘、長井新左衛門尉

 

この争いは、15年以上にわたって続けられ、頼武側には、越前朝倉氏・南近江六角氏。頼芸側には北近江浅井氏がついて戦が繰り広げられた。とにかくドロドロの印象で、他の国も参戦してくるので、細かいことまで書くと非常分かりづらい。

 

 

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○頼武       永正14年(1517)  頼芸✖️

✖️頼武  永正15年(1518)      頼芸○

頼武、越前朝倉氏へ亡命

○頼武     永正16年(1519)      頼芸✖️

土岐政房が病没。朝倉が頼武を擁して、美濃派兵。頼武を守護につける。

✖️頼武  大永5年(1525)       頼芸○

長井長弘、新左衛門尉、クーデター。斎藤氏居館・稲葉山城、守護所・福光館を占拠。浅井氏、朝倉氏も参戦。

△頼武  享禄3年(1530)       頼芸△

頼武、越前に逃亡。朝倉氏の援助で美濃に入国。頼武、再び、朝倉氏、六角氏の援助で頼芸と交戦。

 

この後、頼武は亡くなって、跡目争いは子の頼純に受け継がれていく。

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これまで、長井新左衛門尉の名で出されていた文書だが、天文2年(1533)11月26日付『長瀧寺宛書状』という長井家から出された文書では、長井新九郎規秀という名が代わりに見える。これがいわゆる斎藤道三で、新左衛門尉の子供だと言われている。つまりこれ以前に父の新左衛門尉は亡くなっていると思われる。

 

主人の長井長弘の名前もなく、ここでは子の長井景広に替わっていることから、新左衛門尉と同じくこれ以前には亡くなっていると思われる。土岐頼武との内通を疑われた、長井新左衛門尉、もしくは子の長井新九郎規秀の手で殺害されたと伝わるが、どうだろか?

 

新左衛門尉になる以前、僧侶から油売りの商人、そして武士へと職を変えて面白かった。しかし土岐氏の家臣となってからは、土岐頼芸や長井長弘の影にいるようで、実体が掴みづらかった。