こだわり歴史塾

私が調べた人物の歴史を中心に、歴史の事を書いていきます。

2020-06-01から1ヶ月間の記事一覧

画期的な鎌倉幕府

律令国家における武士達、その代表的な人たちは、朝廷に敵対する夷狄や反逆者たちを討伐し、その武名を京にたずさえて、社会的なステータスを上げていった。 平将門の乱を鎮圧した、平貞盛。 前九年・後三年の役を討伐した、源頼義・義家。 源義親の乱を討伐…

父祖伝来の地〜鎌倉〜

治承4年(1180)10月、源頼朝は安房国から武蔵国に入り、千葉常胤の勧めで相模国鎌倉に本拠を据えた。 『吾妻鏡』によると、鎌倉が本拠に選ばれた理由は、要害の地であり、源氏にとって先祖ゆかりの場所だったからと書いている。

義経・頼朝不和の背景

源義経が兄である、源頼朝に合流したのは、頼朝が富士川の合戦で平家に勝利した後でした。 2人は先祖の源義家・義光兄弟の故事を、自らの境遇に照らして、涙にむせんだといいます。

冷徹なだけでない、頼朝エピソード

政治家としては、冷徹だった源頼朝ですが、人間として冷たい人間だったと判断することは出来ません。 あくまでも政治的に対立する相手や、自分の権力基盤を害いかねない人間に対しては、政治的に排除しますが、頼朝を脅かす人物で無い場合には、人間としての…

東国政権〜鎌倉幕府を作った4カ国

鎌倉幕府を江戸幕府のようなものと比較する事は出来ません。 決して全国政権ではありません。 あくまでも「東国政権」です。

源頼朝挙兵前の伊豆

以仁王の乱に参戦した源頼政は、源頼朝が流人生活を送っていた伊豆の知行国主だった。 しかし乱で頼政が敗死することにより、伊豆は平時忠(平清盛の義弟)が代わりの知行国主となる。 そして受領には、時忠の子の平時兼、目代(受領の代官)には山木兼隆が任命…

源頼朝の人身掌握術

源頼朝の興味深い逸話があります。

流人時代の頼朝

源頼朝という人間を形成する上で、「流人時代」が1番大きいように思えます。 父の源義朝が起こした平治の乱に参加します。しかし義朝は敗れ逃走中に殺害されました。兄弟は或いは殺され、或いは離れ離れになりました。

頼朝の源氏弾圧

源頼朝は弟たちだけではなく、同族の清和源氏一門にも妥協のない態度で接し続けた。 特に甲斐源氏の武田氏一門は、源頼朝に厳しい目を向けられ続けた。 武田信義とその子、一条忠頼、板垣兼信、武田有義らである。

頼朝と義経と範頼

源義経はその軍事的な才能は、この当時では群を抜いている。 平家追討でも、最大の功績をあげている。 しかし兄の源頼朝との関係において、最もしくじっているのも義経だった。

朝廷と距離を置き続けた、源頼朝

源頼朝は鎌倉に本拠を決めて、東国武士達を率いてから、朝廷に対して慎重な態度を取り続けます。 富士川の合戦で平家軍を破り、京へ進撃しようとしますが、関東に引き返す態度もそうです。 これは倶利伽羅峠の合戦で、平家軍を打ち破り、破竹の勢いで京を目…

頼朝政権の正当性の変遷

幕府というのは、もともとは「将軍が戦争の時に拠点とした陣営」というのは、前に記事で書いた事があります。 つまり将軍の御座所。住んでるところ。いる空間を指します。

東国武士と源頼朝〜思惑の違い〜

鎌倉幕府は東国の、関東の御家人を中心とした政権で、最も重要な課題は、彼らの土地問題を調停、解決する事です。 それは御家人達の希望だったのです。

「守護・地頭制」〜文治の勅許と政治家・源頼朝

守護・地頭制と一口にいうが、時代と地域によって役割はさまざまで、理解が難しい。 ただ所謂、「守護・地頭制」にとって、画期となったが、後白河上皇に源頼朝が強硬に要求を突きつけ、認めさせた、文治の勅許です。

寿永二年十月宣旨

木曾義仲が平氏を追っ払い、京都に入ると後白河法皇は、平氏追討の院宣と平家没官領を与えた。 義仲は源頼朝に先立ち、京に入り有利な地位を占めたかに見えたが、平氏追討で失敗し、京での乱暴狼藉で孤立してしまっていた。

鎌倉幕府は「幕府」ではなかった。幕府とは?

鎌倉幕府、室町幕府、江戸(徳川)幕府とありますが、では「幕府」とは、なんなのか? 幕府とは、「中国で将軍が戦争の時に拠点とした陣営」です。 つまり場所や空間を指す言葉だったのです。

鎌倉幕府の成立とは?

鎌倉時代とは、、、 源頼朝が鎌倉に、京都の天皇を中心とした公家達による政権とは別の、武士達による政権が成立したことから、始まる時代だと思います。

鎌倉時代のいくさ〜弓矢がメイン

承久の乱では、幕府側の圧勝で終わったが、この時代、武士達はいったいどういう戦をしていたのか? 有効な武器、戦闘の主体は弓矢であった。 刀は、弓矢ほど有効ではなかったようだ。

安芸国にみる、東国武士達の西国への流入

承久の乱後、後鳥羽方の所領、約3000カ所も没収され、戦功のあった武士達が、その土地に新たに地頭として任命された。 時代は遡りますが、源平合戦後に、平家方の所領も、約500カ所没収され、源氏に味方した武士達にその土地が与えられた。

意外と少ない御家人の人数

御家人は、もともと鎌倉殿(鎌倉幕府の将軍)の直属の家来です。 鎌倉武士団の中のエリートでした。 では、何人いたのか?

「御家人」の発祥

御家人とは、、、源頼朝からはじまる「鎌倉殿」、つまり鎌倉幕府の将軍との間に主従関係を結んだ武士を「御家人」といいました。 もとを辿ると、貴族や武士に奉仕する従者を「家人(けにん)」といった。

【最強のナンバー2】北条義時・後編〜御家人内部の争い、承久の乱に勝ち抜く

畠山重忠の乱では、討伐しますが、北条時政の謀略に不満だったといいます。 この事件が北条義時・政子と北条時政・牧の方の対立が顕在化します。

【家子専一】北条義時・前編〜頼朝の側近NO1

伊豆国で北条氏の本拠地のすぐ隣の土地に、 「江間」がある。 その土地を所領とした江間氏の初代、江間義時は北条時政の次男である。 姉には北条政子がいる。