こだわり歴史塾

私が調べた人物の歴史を中心に、歴史の事を書いていきます。

道饗祭(みちあえのまつり)

聖武天皇の天平年間に、天然痘が流行し、太宰府管内の西海道から山陰山陽の中国地方を天然痘が東上してきた。 これを食い止めるべく、長門国(今の山口県)より東の諸国に道饗祭を執り行っている。

古代日本の感染症は仏教がもたらした?

現在、日本は新型コロナウイルス(COVIDー19)に悩まされ続けている。 この状況は一体いつになったら収まるのか? 古代日本も感染症に苦しんだ時代ともいえる。 この時代にはウイルスの存在も科学的見解も、ましてワクチンなどない時代である。 古代日本は…

官打ちと死の予感

「官打ち」という言葉は今も使われる言葉で、分不相応な官職につけることで相手がそのプレシャーに負けて、命を縮めるという一種の呪いです。 後鳥羽上皇は源実朝に対して、仕切りに官位を薦め、実朝は権大納言、兼左大将、内大臣と昇進して、27歳にして右…

鎌倉3代将軍・源実朝の渡宋計画

治承4年(1180)平氏によって東大寺の大仏殿が焼かれました。 しかし翌年すぐに復興が開始され、重源が造営のための勧進(かんじん)を始めた。 勧進とは、寺院の修理や建立のために、人々に仏教の教えを説いて、費用の寄付を集めることです。 現在の東…

女人入眼の日本国

「入眼」とは、絵を描いた時に最後の仕上げとして、眼を入れることで、そこから転じて、物事の仕上げや成就の意味で使われる言葉です。 つまり「女人入眼の日本国」とは、「日本国の仕上げるのは女性ですよ」、という言葉で、これは慈円の『愚管抄』に出てき…

女性が強かった時代

平安末期〜鎌倉時代は女性が政治・軍事の世界で活躍した時代でありました。 平安末の待賢門院璋子、美福門院得子、祇園女御。 源平合戦期の巴御前、板額(はんがく)。 鎌倉時代の丹後局(高階栄子)、北条政子、藤原兼子。 この女性たちはあくまでほんの一…

頼朝の乳母たち

源頼朝には複数の乳人がいたことがわかっています。 比企尼、寒河尼、山内尼、三善康信の伯母にあたる女性の4人です。ただ三善康信の伯母は前の4人の誰かと同一人物ではないかとも言われています。 ※あと摩々尼という乳母もいたといいますが、あまりはっき…

鎌倉時代のキャリアウーマン

鎌倉時代はまだまだ女系が強い時代でした。 それを表す一つに乳母(めのと)があります。 乳母とは、高い身分の女性に代わって、その子の世話をする女性の事で、お乳を与えたり、おむつを換える仕事をしていました。

源頼朝と北条政子夫婦による一夫一婦制

日本で最初に一夫一婦制を行った夫婦は、源頼朝と北条政子だといわれることがあります。 頼朝に愛人は何人かいて、子供もいましたが、これらの人々が正式に認められる事はなく、家族名簿に載せられることもありませんでした。

亀の前事件

亀の前という女性は、良橋太郎入道という者の娘で、源頼朝にとって流人時代からの愛人でした。 亀の前はどういう女性かというと、「顔貌の濃まやかなるのみにあらず、心操、ことに柔和なり」と記されています。 つまり顔は美しく、性格はとても穏やかな女性…

頼朝を取り巻く女達

草深い坂東で生活することになった源頼朝ですが、もともとは京育ちで源氏の御曹司、女性にモテたのではないかと想像します。 今回は北条政子は除いて、頼朝と関係があった、もしくはあった可能性のある女性を取り上げます。

正々堂々としていなかった鎌倉武士②〜那須与一の場合

屋島の合戦の名場面として、那須与一が扇の的をを射る有名な話があります。 話はこうです。戦いに敗れて海上に逃れた、平氏方の軍船の中から一艘出てきて、女房が扇を掲げました。 これは平氏方は一種の余興でしたが、そこには挑発の意味も込められています。…

御家人以外の武士達〜本所一円地住人

鎌倉時代はすべての武士が御家人だったかというと、勿論そうではありません。 有名な「御恩」と「奉公」は、将軍(鎌倉殿)と御家人の間の仕組みで、いざというときの軍事動員できる武士は、御家人だけでした。 さらに細かく言えば、御家人達とそれに従う家臣…

正々堂々としていなかった鎌倉武士

猪俣則綱(いのまたのりつな)という武士がいました。 一ノ谷の合戦でのこと。 平氏方の越中前司盛俊(えっちゅうのぜんじもりとし)と戦いとなりました。 一騎討ちになり、則綱は盛俊に片脇で挟まれて首をとられる寸前に追い詰められます。 そこで則綱は、 「敵…

東国武士と西国武士

『平家物語』では、富士川の戦いに臨んで、平家方の総大将・平維盛が、斉藤実盛に坂東武者の勇猛について、問いただした話が残っている。

赤旗と白旗のルーツは?

紅白歌合戦や運動会の紅組・白組、この由来は「源平合戦」から来ていることは、有名です。 平氏が赤旗 源氏が白旗

武士団の構成

武士団は、血縁関係と主従関係を根幹とする、戦闘を生業とする集団です。 では、その基本的な構成はどうなっていたのでしょうか?

地方の武士団に立てられる、源氏の「貴種」たち

地方の実力者たちは、中央政府に対抗するために、源氏の「貴種」たちを擁立して、自分たちのための政権づくりに役立てようとします。 ・源頼朝に対する、伊豆の北条時政。 ・木曾義仲に対する、信濃の今井兼遠。 ・源義経に対する、陸奥の藤原秀衡。 ・源希…

地方の領主の不安。そして地方政権へ

地方の在地領主・武士たちは、中央政府から派遣されてくる官僚たちを警戒していました。 それ以外の警戒すべき者たちがいました。

アンチ平家の誕生

治承・寿永の乱は、治承4年(1180)から元暦2年(1185)にかけて、全国各地で6年間にわたる大規模な内乱です。 源頼政の挙兵から平氏の滅亡までという、源氏と平氏の合戦、源平合戦ともいわれていますが、内実はむしろ全国的な地方武士の反乱でした。

出家する武士たち

平安末から鎌倉時代には、多くの武士達が出家していった。 この時代の仏教運動を進めた僧たちも武士出身者が多く、名前を挙げると、 浄土宗の開祖・法然。 本格的な禅を日本に伝えた臨済禅の祖・栄西。 時宗の開祖・一遍。

都人の東国への偏見

『吾妻鏡』の"吾妻"とは古い言葉で、"東"のことを指す。 和歌で「吾妻」と使われれば、枕詞で「鳥が鳴く」と続きます。 では何故、鳥が鳴くなのでしょうか?

画期的な鎌倉幕府

律令国家における武士達、その代表的な人たちは、朝廷に敵対する夷狄や反逆者たちを討伐し、その武名を京にたずさえて、社会的なステータスを上げていった。 平将門の乱を鎮圧した、平貞盛。 前九年・後三年の役を討伐した、源頼義・義家。 源義親の乱を討伐…

父祖伝来の地〜鎌倉〜

治承4年(1180)10月、源頼朝は安房国から武蔵国に入り、千葉常胤の勧めで相模国鎌倉に本拠を据えた。 『吾妻鏡』によると、鎌倉が本拠に選ばれた理由は、要害の地であり、源氏にとって先祖ゆかりの場所だったからと書いている。

義経・頼朝不和の背景

源義経が兄である、源頼朝に合流したのは、頼朝が富士川の合戦で平家に勝利した後でした。 2人は先祖の源義家・義光兄弟の故事を、自らの境遇に照らして、涙にむせんだといいます。

冷徹なだけでない、頼朝エピソード

政治家としては、冷徹だった源頼朝ですが、人間として冷たい人間だったと判断することは出来ません。 あくまでも政治的に対立する相手や、自分の権力基盤を害いかねない人間に対しては、政治的に排除しますが、頼朝を脅かす人物で無い場合には、人間としての…

東国政権〜鎌倉幕府を作った4カ国

鎌倉幕府を江戸幕府のようなものと比較する事は出来ません。 決して全国政権ではありません。 あくまでも「東国政権」です。

源頼朝挙兵前の伊豆

以仁王の乱に参戦した源頼政は、源頼朝が流人生活を送っていた伊豆の知行国主だった。 しかし乱で頼政が敗死することにより、伊豆は平時忠(平清盛の義弟)が代わりの知行国主となる。 そして受領には、時忠の子の平時兼、目代(受領の代官)には山木兼隆が任命…

源頼朝の人身掌握術

源頼朝の興味深い逸話があります。

流人時代の頼朝

源頼朝という人間を形成する上で、「流人時代」が1番大きいように思えます。 父の源義朝が起こした平治の乱に参加します。しかし義朝は敗れ逃走中に殺害されました。兄弟は或いは殺され、或いは離れ離れになりました。