こだわり歴史塾

私が調べた人物の歴史を中心に、歴史の事を書いていきます。

【家子専一】北条義時・前編〜頼朝の側近NO1

伊豆国で北条氏の本拠地のすぐ隣の土地に、

「江間」がある。

その土地を所領とした江間氏の初代、江間義時は北条時政の次男である。

姉には北条政子がいる。

 

 

時政からは跡継ぎとして見られる事は一度もなかった。

 

長男には北条宗時がいたし、宗時が石橋山の戦いで亡くなった後は、どうやら時政と牧の方との子の北条政範が跡継ぎとして見られていたようである。

 

義時は、源頼朝の挙兵から富士川の合戦の後、鎌倉に腰を据えるまで、時政と行動を共にしていて、あまり表には出て来なかった。

 

その後、頼朝が寝所を警護する11名を選んだ際に、義時もその中に選ばれた。

彼らは家子と呼ばれ、源氏の血縁者(門葉)と御家人の間に位置し、頼朝の個人的な側近や親衛隊と思って間違い無いだろう。

 

義時はその中で「家子専一」という評判を得た。つまり、頼朝の側近の中で随一、という意味で、高い能力を持っていた。

 

義時も北条氏と自分を分けていたようで、頼朝の浮気がバレて、怒った北条政子が浮気相手の亀の前の住居を破壊した、亀の前事件でも見られる。

頼朝は政子と実際に破壊した、牧宗親(牧の方の父、時政の舅)の行いに対し、宗親の髻(髪を頭上で束ねたもの)を切って辱めた。

これに怒った時政は一族を連れて、伊豆へ立ち退いたが、義時は同調せず、相変わらず頼朝に仕え続けて頼朝に褒められている。

 

頼朝も義時を大変気にいっていたようで、当時頼朝の大倉御所で働いていたお気に入りの女官(女房)で、「権威無双」「容顔太だ美麗なり」といわれた姫の前との間を取り持っている。

 

義時は1年も前から姫の前にラブレター(恋文)を送ります続けていたといいますが、一向に相手にされていなかったみたいで、それを見かねた頼朝が間に入ってくれたのでした。

 

 

義時は頼朝側近としてだけではなく、平家との戦いでも、源範頼軍に従軍し、葦屋浦の戦いで武功を上げ、奥州合戦にも従軍経験があります。

 

 

頼朝の死後は13人の合議制に最年少で名前を連ねます。

 

ちなみに合議制ができた当時の、メンバーの年齢です。

三浦義澄(73)

足立遠元(72)

安達盛長(65)

北条時政(62)

三善康信(60)

二階堂行政(60)

梶原景時(60)

八田知家(58)

中原親能(57)

比企能員(55)

和田義盛(53)

大江広元(52)

北条義時(37)

 

次に若い大江広元とは15歳差、最年長の三浦義澄とは36歳差と、如何に義時が若く、将来を嘱望されていたかが分かる。

 

ただこの頃は父の時政と一体となって行動し、協力関係にある。

 

その中で比企氏の乱の後、頼家の嫡男・一幡の殺害(『愚管抄』より)

2代頼家を殺害(『愚管抄』『増鏡』より)を、父の指示のもと、実行していたともいわれる。

 

この協力関係に亀裂が入るのが、畠山重忠の乱からである。