東国武士と源頼朝〜思惑の違い〜
鎌倉幕府は東国の、関東の御家人を中心とした政権で、最も重要な課題は、彼らの土地問題を調停、解決する事です。
それは御家人達の希望だったのです。
有名な話があります。
鎌倉に地盤を固めた源頼朝は、平家との富士川の戦いで、平家軍に大勝します。
頼朝はこのまま京都に進軍しようとします。
その頼朝の前に千葉常胤、上総広常、三浦義澄ら宿老たちが進み出て、「まだ東国には頼朝になびかない、常陸の佐竹義政のような者たちがいる。まずは東国を平定した後に、西へ進軍すべきです」といいました。
ここは歴史上における、大きな分岐点でした。
英雄たちの選択でした。
頼朝はこの進言を受け入れます。
つまり平家討伐はせずに、東国武士たちの権利の保障を第一としたのです。
東国武士たちは、その土地の領主(在地領主)でもあり、中央の朝廷から搾取されていて、そこから離れたがっていたのです。
これは後の事になりますが、朝廷権力とは別の政権、初めての武士による政権を作る事につながりました。
頼朝は自分を支えてくれる東国武士達の要望に添い、進言を受け入れました。
しかし、頼朝は京都に対して、親近感を抱いていたと思われる節があります。
ここに両者のズレがありました。
それでも、頼朝は中央とは距離を取りつつ、鎌倉で東国武士のための国家、東国独立国家を作っていく過程が興味深いものがあります。