頼朝と義経と範頼
源義経はその軍事的な才能は、この当時では群を抜いている。
平家追討でも、最大の功績をあげている。
しかし兄の源頼朝との関係において、最もしくじっているのも義経だった。
①頼朝の弟である自分を特別な存在と思っている
・・・鶴岡若宮宝殿の上棟式で、頼朝が工匠に与える2匹の馬を引く事を嫌がる。
「役柄が卑しいと思って嫌がっているのだろう」
ともう一度厳命して、義経は慌てて馬を引いた。
②頼朝に無断で左衛門尉に任官してしまう
・・・義経と同じく、木曾義仲や平家追討に功績のあった源範頼が朝廷に推挙され、三河守になるが、義経はなれなかった。
そこで義経は官位に執着して、頼朝の許可も取らずに後白河法皇から左衛門尉に任官される。
③頼朝のつけた軍目付を尊重しない
・・・壇ノ浦の戦いで義経軍につけられた軍目付・梶原景時と「逆櫓論争」で反目。
景時は頼朝の側近で、頼朝による鎌倉幕府政治の政策の最大の理解者で推進者。
その景時に讒言されたとも言われる。
他にも、西国や京の戦況を鎌倉へ報告するのを怠るなどが挙げられる。
義経の兄の源範頼などは、義経を反面教師に、せっかく任じられた三河守を辞任するなど控えめな態度だった。
しかし曽我兄弟が工藤祐経を富士の狩場で討ち取った仇討ち事件で、頼朝が討たれたという誤報が、北条政子の元に届いた。
鎌倉に留守居役としていた範頼は、
「範頼が健在であれば大丈夫」
と政子を慰めた。
そのことが範頼が天下を狙う野心があるとされてしまった。
反逆の嫌疑を受けて、起請文を書いて頼朝に提出したが、かえってその文言を頼朝に咎めらた。
その挙げ句、自分の家来を頼朝の寝所の床下に忍ばせて、様子を探らせていたのがバレて、伊豆に送られ、殺された。
頼朝にとっては、義経にしろ範頼にしろ、家来の1人であることを要求した。
彼ら弟たちには、肉親の甘えなどは一切許されなかった。
むしろ御家人たちに比べたら、厳しいくらいともいえる。
それは義経や範頼がまかり間違えばライバルになる可能性を感じていて、一族が別れて相争う保元の乱の再現を心配していたのかもしれない。