【頼朝の懐刀】梶原景時〜頼朝を最も理解した男、後ろ盾を失い没落
『愚管抄』に「鎌倉の本体の武士」、源頼家の「一の郎党(第一の側近)」と記された梶原景時は、源頼朝には最も信頼された臣下だった。
「懐刀」と言ってもいい存在だった。
しかし、頼朝の死と共にあっという間に転落してしまった。
梶原氏は大庭氏と同じ鎌倉氏。両氏とも源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。
源頼朝が挙兵し、石橋山で平家方と戦った時、梶原景時は平家方として参戦した。
頼朝は負けた。この時、散々に破れ、潜伏していた頼朝を見逃して、ピンチを救ったのが景時とであった。
のちに景時は土肥実平を通じて源氏に投じて味方についている。
頼朝の部下となった景時は、頼朝の目や耳となり、重要な戦いに参戦していく。
源(木曽)義仲との宇多川の戦いでは、源義経をはじめ、他の将が簡単な戦勝報告しかしなかった一方で、景時は詳細な戦果報告をして、頼朝を満足させている。多くの鎌倉武士たちが、単純な武者だったのとは違い、景時は事務能力の高さは群を抜いていた。
景時は弁舌に長け、和歌も嗜む教養人でもあったらしい。
それだけではない。
景時は武士としても凄まじい事をやってのけることもできた。
上総広常という武士がいた。
上総と下総の国に、広大な領地を持っていて、勇猛果敢な武士だった。
石橋山の敗戦後に困窮していた、頼朝を助けたのも上総広常だったが、横暴な振る舞いが多かった。
頼朝にとっては危険な存在であった。
ある日、梶原景時は広常に会いに行き、営中(幕府の中)で双六に興じていた。
景時は、その最中、突然、広常を誅殺したという。
景時は源義経とも逸話がたくさんある。
屋島の戦いの前には船につける櫓で対立(逆櫓論争)。
壇ノ浦の戦いでは先陣争いで一触即発になり味方同士の斬り合いになりかけている。
頼朝の目ともいえる景時は、この後、義経を讒言したといわれる。しかし、それをさせたのも義経の独断先行だったかもしれない。
ただ景時は周りの御家人達から讒言癖があると思われていたようである。
のちに三浦義村に「景時に讒言されて命を落とし、職を失った者は、数えきれない」といわれている。
頼朝の死後である。
13人の合議制の1人となる。
だがすぐに景時の運命は急転する。
結城朝光が御所で「忠臣は二君に仕えず」と言ったことがあった。
それを景時が源頼家に注進した。
それは今の政治を誹謗するものだと、頼家に讒言したのだ。
それを知った阿波局(北条政子の妹)がそれを結城朝光に伝え、びっくり仰天した朝光は三浦義村に相談する。
先に述べた三浦義村の景時の讒言癖は、ここでの言説である。
逆に義村は、景時を弾劾する事を決意する。
有力御家人を鶴岡の神前に集め、景時と対決する事を誓って中原仲業が自ら作成した訴状を読み上げる。
その訴状に署名をしたのは、66名にものぼった。それを三浦義村、和田義盛が大江広元に手渡し頼家に提出するよう求めた。迷っていた広元だが、和田義盛がさらに渡すよう要求したので、広元は頼家に訴状を示した。
頼家は景時を呼び訴状を示し、何か言うことはあるかと、求めたが景時は申し開きはせずに、自分の領地である相模の一宮に引き籠った。
ひと月後、鎌倉に戻ったが、再び追放されることが決定し、住宅は解体され、守護である播磨を解任されたことで、失脚が決定的となった。
頼朝の一周忌直後に景時は一族と共に一宮を脱出し、西へ向かいます。景時は京の貴族、土御門通親や徳大寺家と親交があり、謀反を企て、京に赴くのではないかと思われたのかもしれません。追討軍が派遣されたが、その前に駿河の清見関で、近隣の武士達と乱闘になり、景時と梶原一族はほとんど討ち果たされてしまいました。
景時が討たれたのは、頼朝のたった1年と少しのことでだった。