鎌倉3代将軍・源実朝の渡宋計画
治承4年(1180)平氏によって東大寺の大仏殿が焼かれました。
しかし翌年すぐに復興が開始され、重源が造営のための勧進(かんじん)を始めた。
勧進とは、寺院の修理や建立のために、人々に仏教の教えを説いて、費用の寄付を集めることです。
現在の東大寺は戦国時代に焼かれてしまい、この時に復興された大仏も大仏殿も残ってはいないが、南大門や金剛力士像は今も残っています。
その復興の中で、重源をサポートして東大寺大仏の鋳造に成功した人物に陳和卿という宋人がいた。
建久6年(1195)、東大寺復興の落慶供養の時に参列した源頼朝が、この陳和卿に会いたいと望んだが、頼朝を「多くの人間の命を奪ったから罪深い」として面会を断ったという。
その彼が建保4年(1216)鎌倉に下ってきて頼朝の子で、この時の鎌倉将軍・実朝と面会を希望した。その理由が、実朝が権化(神仏の化身)の再誕というものでした。
面会した時、陳和卿は実朝に向かって、「貴方は前世、宋朝の医王山の長老で、自分はその時門弟として列していました」と言って涙を流して拝礼しました。
なんと、これは実朝が5年前に夢の中で高僧に言われた事と一緒で、すっかり信じ込んでしまいました。
交流を重ねていくうちに、実朝は育王山を訪れるために宋に渡りたいと思うようになっていき、唐船を建造を陳和卿に依頼しました。
実朝は、時の執権・北条義時や大江広元の諌言にも耳を貸しませんでした。
翌年、船が完成し、由比ヶ浜の海に御家人数百人が集められ、彼らを使って船を引き出そうとします。
しかし船は動かず海に浮かびません。
由比ヶ浜は浅瀬だったので、唐船のような大きな船は浮かびませんでした。
陳和卿のケアレスミスでした!
計画は失敗、陳和卿は咎められると思い、姿を消します。その後一切消息はわかっていません。