【対朝廷-交渉人】中原親能
貴族の下級官僚の子であった。
中原親能は幼い頃に相模で育っていたいう。そこで、若かりし頃の源頼朝と知り合いだったとも言われている。
その後、京都で前中納言・源雅頼の家人として働くことになっていたが、そこの家で追捕を受けて逃げ出すという事件があった。
それは頼朝と知り合いであったことを咎められたからである。
その後、鎌倉で頼朝に側近として仕えることになる。
木曾義仲打倒の為、源義経の上洛の時、共に上洛し、公家と交渉を担当した。
この時、本来の「頼朝代官」である、義経や源範頼を差し置いて、親能が土肥実平と共に、朝廷交渉をしているのは、興味深いところです。
成人してから在京経験のない、義経・範頼より、朝廷との交渉においては京下官人として親能が信頼されていたようです。
今度は後白河上皇の使いで、鎌倉に下り、頼朝に上洛を促すことになる。
その数ヶ月後、平家追討軍の奉行として梶原景時と上洛する。
この間の親能の動向は非常に目まぐるしい。
そして平家討伐の為に、源範頼の側で各地を転戦している。
源平の戦いの後は、京都守護も務め、政所の公事奉行も務めている。
頼朝死後は、13人の合議制の一人にも数えられる。
ところで中原親吉の妻は、源兼忠(源雅頼の子)や三幡(源頼朝の次女)の乳母だったのだが、後年、親能が京にいた時、三幡が危篤の知らせが届いた。急いで鎌倉へ戻るが、三幡はあえなく死去してしまった。そこで親吉は出家し寂忍と名乗ったという。
承元2年(1209)、66才で京で亡くなった。