こだわり歴史塾

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【初代執権】北条時政〜策謀の執権、最期は自分の子に隠居させられる

北条氏は決して大きい豪族ではなかった。

 

平氏の血を引くとされるがはっきりはしません。

 

 

北条時政自身も、40歳を越えても、特に官位には就かずに「北条四郎」や「当国の豪傑」としか記されていない。

 

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北条時政像(成願就院蔵)



 

 

 

他の北条氏も甥の北条時定の系統以外に見られないことからも、私たちが思うよりも目立たない豪族で、飛び抜けた存在ではなかったようだ。

 

頼朝が伊豆に配流された時に、北条時政は監視役となっている。

 

娘の政子と頼朝との関係を最初は認めていなかったが、最終的には認めて、頼朝の後援者となった事で時政の人生は啓けたといえるだろう。

 

頼朝の挙兵の際は共に立つことになる。伊豆国目代山木兼隆を討ち、国衙を掌握し、相模進出も果たすが、石橋山破れる。この時に嫡男の宗時が討ち死にしてしまっている。

 

 

この後、頼朝とは別行動をとり、甲斐国に赴いて甲斐源氏武田信義と合流し、駿河に侵攻し、針田の戦いをし、頼朝と合流し富士川の戦いに参戦している。

 

その後、佐竹氏を征伐し、鎌倉に頼朝と戻り、地盤を固める。

 

武田信義が失脚後には、代わりに駿河守護になっている。

 

源氏が平氏のを討伐した後、義経追討処理の為に、入京し朝廷と交渉して、守護・地頭の設置を認めさる。

そのまま京で治安維持や平氏の残党に狩りに力を尽くし、承久の乱後に六波羅探題が設置されるまでの、「京都守護」の初代となる。

 

鎌倉に戻り、それほど目立つ事はなかったが、頼朝死後、13人の合議制に入ってからは次第に頭角を表してくる。

 

厳密には、2代将軍頼家の代になって、外戚の地位が時政から比企能員に移ってから、権力を逃がさない為に剛腕を奮っていくこととなる。

 

頼家は比企氏に親しみを憶えていた。妻の若狭局も比企氏、乳母も比企尼の次女、三女であり、それほど北条氏には愛着はなかっただろう。