こだわり歴史塾

私が調べた人物の歴史を中心に、歴史の事を書いていきます。

官打ちと死の予感

「官打ち」という言葉は今も使われる言葉で、分不相応な官職につけることで相手がそのプレシャーに負けて、命を縮めるという一種の呪いです。

 

後鳥羽上皇源実朝に対して、仕切りに官位を薦め、実朝は権大納言、兼左大将、内大臣と昇進して、27歳にして右大臣へと異例の出世を遂げていった。

 

 

 

後鳥羽上皇南都北嶺に対しても、北条義時を呪詛する事を命じているので、実朝に対して呪いをかけていても不思議は無いでしょう。

 

 

ある時、北条義時大江広元を招いて相談をしました。

「かつて源頼朝は朝廷から官位を与えられるたびに固辞してきた。それは子孫に良い運を残すためだった。それなのに実朝はまだ若いのに昇進が早すぎて心配している。広元に諫めてもらいたい」

広元もそれに賛成して、義時の使者として御所に向かった。

 

広元は実朝に対し、

「子孫繁栄を願って、征夷将軍のみに止め、歳をとってから大将を兼ねてはどうか」

と諫めた。

すると実朝は、

「広元のいうその趣旨には感心したが、源氏の正統は命運を縮めており、子孫が継ぐということはないだろう。それならば飽くまでも官職を頂いて家名を挙げたいのだ」

と言ったので、広元は何も言えずに、義時に報告をしたといいます。

 

すでに自分の命運と、源氏の嫡流の行方を予言したような発言をしています。

 

事実、承久元年(1219)、右大臣任命の儀式で鶴岡八幡宮に赴いた実朝は、兄・頼家の遺児・公暁の手で殺されることになります。