【幕府の知恵袋】大江広元〜子孫は戦国最高の知将・毛利元就
鎌倉の武士で、文書を読めるものは少なかったという。
そんな鎌倉武士を率いた、源頼朝の優れたところは、政権作り当初から文章作成を担える文官を京都の下級貴族からスカウトしていた事だ。
彼らのことを「京下貴族」ともいう。
その中の代表格が、大江広元である。
すでに頼朝に仕えていた兄の中原親能に続く形で頼朝に仕えて、公文所の別当となる。
公文所は裁判や政務文書作成で、別当とはそこの長官のことをいいます。
大江広元は、裏方の業務だけではなく、義経追討をチャンスとして守護・地頭の設置の進言や、幕府の権力争いである比企の乱や和田合戦にも重要な政治シーンでも、持ち前の知力で源頼朝や北条政子といった、その時の権力者たちのに頼りにされていることである。
幕府最大危機である、承久の乱においても、決戦する事で決めた幕府首脳が、防御に優れた鎌倉に立て篭もって、足柄ー箱根の関所を固める作戦を取ったときに、この作戦に反対する。
守っていて時間をかけると、鎌倉武士たちを不安にさせて、離反を招くおそれがあると説得し、これに北条政子も賛成しました。
それでもぐずぐずと幕府首脳部は出陣しないので、大江広元は、「もし今夜、北条泰時ひとりでも京都に向けて急行させたなら武士たちは雲が竜になびくように従うはず」と、決戦を勧めます。
京下りの文官が、承久の乱決戦推進派でした。
その後、当時の執権北条義時の館に雷が落ちて一人が死亡という事故が起こります。義時は悪いことが起こる前兆かと不安になり、大江広元を呼ぶと、彼は「恐れることはありません。源頼朝の時代にも雷が落ちても戦には勝った」という逸話を示して、北条義時メンタルもケアしていた。
公家というと、軟弱なイメージがあるが、彼にはそれは全く当てはまりません。
ちなみに、彼の子孫が、戦国時代、謀略を駆使して、中国地方一帯を支配した毛利元就である。
幕府の創成を支えた、鎌倉の重臣の血は、戦国時代においても、発揮されたのである。