【文官の長老】三善康信
三善氏は元々は漢族系の渡来人といわれる人々で、律令制の中では算道をなりわいとした、下級貴族だった。
三善康信も下級貴族であったが、自分の母親が源頼朝の乳母の妹という縁故で、頼朝が伊豆に配流された時、10日に1度ずつ使者を送っては、京都の情勢を頼朝に知らせていた。
つまり頼朝は京都を離れていても、ずっと早い段階から、京都の政治状況を詳しく知っていたということになる。
例えば、以仁王の乱が鎮圧された後も、平家が以仁王の令旨を受け取った全国の源氏を討伐を計画しているので、奥州に逃げるようにすすめている。
頼朝はその情報をもとに、結局は挙兵することになるが、影響を与えている事は間違いない。
平家との戦がクライマックスを迎えつつある、元歴元年(1184)に鎌倉に下って、鶴岡八幡宮で頼朝に対面し、それ以後頼朝に仕えることになる。
頼朝死後、2代将軍の頼家の代になり、13人の合議制の1人に名を連ねる。
頼家は、頼朝のような主君ではなかった。
頼家は領地争いの裁判で、自ら地図に簡単な線を引いて、これで収めよと放言したり、頼朝以来の恩賞が500町を超えるものはその超過分は没収して、所領のない自らの側近たちに与えるとして、大江広元に命じた。
これには、今まで功績のあった御家人たちも慌てて、三善康信が諫めた為に、とりあえず延期になった。
その後をうやむやになり、頼家の命令は停止された。
承久の乱で、幕府が朝廷と決戦すると決めた時、幕府首脳陣は、関東に立て篭って、守備を固めるという消極策を取った。
この時、大江広元が京都に進軍するという積極策を説いて、首脳陣を説得して、その方針に決まったが、なかなか出兵しなかった。
困った広元は、この時、高齢で自宅静養中だった三善康信に意見を求めると「あれこれ議論を重ねるのは愚かな考えで、時間を無駄に使ったのは怠慢だ」と広元の考えを強く後押し、幕府軍を勝利へと導いた。
承久の乱の後、一月後に亡くなる。