こだわり歴史塾

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【鎌倉最有力御家人】比企能員〜北条氏のような幕府の事実上の権力者になり損なう

頼朝が最も信頼した一族といえば妻の実家である北条氏と思うかもしれないが、実際は乳母の実家である比企氏であった。

 

平安時代から鎌倉時代は乳母の力が強い時代でした。

ひいては女性の力が強い時代だったのです。

 

 

頼朝には少なくとも4人の乳母がいることは分かっていますが、最も有名なのが、比企尼です。

比企尼は、可愛がっていた頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流されてからも生活物資を送って支援し続けました。

比企尼には3人の娘がいて、長女は安達盛長の妻(丹後内侍)に、次女は「武蔵随一」といわれた川越重頼の妻(川越尼)、三女は伊藤祐清に、祐清が討たれると源氏の名家平賀氏の平賀義信の妻になります。

 

次女と三女は源頼朝の跡を継いだ、源頼家の乳母でもありました。

 

比企尼は甥に比企能員がいて、彼を猶子としました。

 

また能員の娘は頼家の妻になりました。若狭局です。二人の間に生まれた子を一幡といいました。

 

二代将軍の源頼家にとっては乳母や、妻が比企氏ということになります。

 

比企能員の地位は盤石であると思われていたでしょう。

 

能員は平氏討伐に従軍。

奥州出兵の時は、総勢三手のうち、一手の北陸道の大将軍を務める。

大河兼任の乱でも、東山道大将軍を務めている。

頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の随兵七人の内に選ばれ、さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り右衛門尉に任ぜられ、順調にキャリアを積み重ねます。

 

頼朝死後も、頼家の外戚でもあり、13人の合議制にも加わり、御家人内でも最大の権力を持っていたといっても過言ではないでしょう。

 

2代将軍の源頼家は危機感を感じていました。

合議制によって将軍権力を制限され、側近の梶原景時を討たれ、少しずつ追い詰められていきました。

頼家側も黙っていません。

梶原景時事件で、大事な役割を果たした阿波局は、頼朝の弟の阿野全成に嫁いでいました。阿波局は景時没落のきっかけを作った女性です。そして北条政子の妹でした。

頼家は、その阿波局の夫の阿野全成に謀反の疑いをかけ殺してしまいます。

阿波局は姉の政子に匿われます。

 

そんな時、源頼家は病に倒れ一時、重態となります。北条時政は将軍権力を二分し、関西38ヵ国の地頭職を千幡(頼家の弟、のちの実朝)に、関東28ヵ国の地頭職と惣守護職を一幡に与える提案をし、可決されます。

 

病床の頼家はこれを知って、比企能員を招き北条氏を討つ企てをします。

 

ところがこの時、障子を隔てて北条政子がこの密事を聞いていたというのです。

 

政子はすぐに時政に報告。

 

時政は大江広元に相談し、いったん自分の館に戻り能員を討つ計画を立て、また広元と相談します。

 

時政は仏像供養の儀式を口実に、相談があると自分の館におびき寄せました。のこのこやってきた能員はあっさりと誅殺されてしまいました。

 

時政はすぐに北条義時、泰時父子に兵を率いさせて比企館を襲撃させます。

比企館には頼家の妻・若狭局と子供の一幡がいました。北条方には三浦義村和田義盛畠山重忠平賀朝雅、小山朝政、結城朝光ら有力御家人が参加していて、逃げ道はありませんでした。比企一族共々、頼家の妻も子も皆殺しにされてしまいました。

 

時政には頼家がすぐに病で死ぬと思っていたのでしょう。

京都に使者を派遣して「頼家が亡くなったので3代将軍は弟の千幡をたてる」といわせます。

 

ところが頼家が病が治り、快方にむかいます。

頼家は比企氏が滅ぼされたことに激怒して、使者を送り、和田義盛比企能員暗殺に直接手を下した新田忠常に時政追討を命じます。

しかし義盛はすぐに時政にこの件を時政に報告し、頼家の使者と、もたもたしていた忠常を口封じもあって滅ぼしてしまいます。

 

頼家は病気で政務不能として、出家させられてしまいます。この時、同日に千幡は征夷大将軍に任じられます。

頼家はこの後、伊豆の修善寺に幽閉され、亡くなります。

暗殺されたともいいます。