【誇り高き長老】三浦義澄
相模の三浦半島に大規模に力を持っていた三浦氏は、前九年、後三年の役で東北で活躍した源頼義、義家の代から源氏の家臣で、頼朝も挙兵の際には三浦氏に大きな期待をかけていた筈である。
三浦義澄は源義平に従って、平治の乱を戦い、地元に帰り、兄・杉本義宗が亡くなった、跡を継いで三浦氏の家督を継ぐ。
ちなみに義宗の子が和田義盛である。
源頼朝に呼応して、すぐに挙兵をしたのだが、悪天候により頼朝になかなか合流できずに、頼朝は石橋山の戦いで敗れて、行方が分からなくなってしまった。
引き返す途中で畠山重忠らと戦となり(衣笠城合戦)、父の三浦義明が戦死してしまっている。
しかし諦めずに、頼朝に合流、源氏の宿老として頼朝に助言をし、戦でも一ノ谷、壇ノ浦、奥州合戦も各地を転戦している。
頼朝が上洛した際、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入ったが子の義村に、賞を譲っている。
頼朝が征夷大将軍に任命された際、義澄は勅使から辞令を受ける大役を果たしている。
その時、「三浦介」という肩書ではなく自分の名を名乗った。
それは朝廷とは別の次元に生きてきた武士としての誇りがあったためともいわれている。
頼朝が亡くなった後、13人の合議制の1人となる。この中では最年長で、この時、73歳であったのは驚くべきことです。
翌年、梶原景時の変で、梶原景時とその一族が討たれた3日後に病没。
ちなみに跡を継いだ、子の三浦義村は、藤原定家が「八難六奇の謀略、不可思議の者か」と評した権謀術数の人です。
梶原景時失脚に関わり、畠山重忠の乱後に事件の首謀者を殺害し、和田合戦では和田義盛を裏切って、実朝暗殺後の公暁を殺害して、いつの間にか北条義時に継ぐ実力者となった人です。
父の義澄とは違って、非常に政治的な人間でした。