寿永二年十月宣旨
木曾義仲が平氏を追っ払い、京都に入ると後白河法皇は、平氏追討の院宣と平家没官領を与えた。
義仲は源頼朝に先立ち、京に入り有利な地位を占めたかに見えたが、平氏追討で失敗し、京での乱暴狼藉で孤立してしまっていた。
そこで後白河は、寿永2年(1183年)10月、義仲を牽制するため「寿永二年十月宣旨」を出します。
それは、頼朝の支配下の東海道・東山道の国衙領と荘園の年貢を、もとの国司・本所に進上すること、もし従わないものがいれば、朝廷の命によって、頼朝が処置する、というものです。
ただし義仲の勢力圏の北陸道は入っていないので、後白河はまだ頼朝と義仲を天秤にかけて、いつでもどちらも取捨できるようにしています。
だが頼朝はこれによって、東国の行政権を正式に朝廷に認められたとされています。
朝廷もここで頼朝に反逆者というレッテルをやめて、伊豆に入らされる前の従五位時代の位階を与えます。
頼朝も挙兵以来、使ってきた治承の年号を、寿永に改め、今の朝廷の体制を承認します。