こだわり歴史塾

私が調べた人物の歴史を中心に、歴史の事を書いていきます。

2020-05-01から1ヶ月間の記事一覧

【幕府武官のトップ】和田義盛

和田氏は相模の三浦氏の支族である。 本家の三浦氏には、のちに和田義盛と同じく13人の合議制の1人になった、三浦義澄がいる。義盛にとっては叔父にあたる人である。

【文官の長老】三善康信

三善氏は元々は漢族系の渡来人といわれる人々で、律令制の中では算道をなりわいとした、下級貴族だった。 三善康信も下級貴族であったが、自分の母親が源頼朝の乳母の妹という縁故で、頼朝が伊豆に配流された時、10日に1度ずつ使者を送っては、京都の情勢を…

【誇り高き長老】三浦義澄

相模の三浦半島に大規模に力を持っていた三浦氏は、前九年、後三年の役で東北で活躍した源頼義、義家の代から源氏の家臣で、頼朝も挙兵の際には三浦氏に大きな期待をかけていた筈である。

【初代執権】北条時政〜策謀の執権、最期は自分の子に隠居させられる

北条氏は決して大きい豪族ではなかった。 平氏の血を引くとされるがはっきりはしません。

【源氏四代に仕えた名門】八田知家

八田知家は下野国国司の名門の宇都宮氏の出身で、源義朝〜実朝まで4代に仕えた。 保元の乱から源頼朝の父・義朝に従っていた。 頼朝の乳母寒河尼の兄弟でもありました。

【有能な頼朝の側近】二階堂行政

二階堂行政は、京の公家藤原南家の乙麻呂流の出身である。 大江広元や三善康信、中原親能らよりは、公家しては家格の高い家柄であったが、同じく京から鎌倉に下って、幕府の官僚として活躍した。

【鎌倉最有力御家人】比企能員〜北条氏のような幕府の事実上の権力者になり損なう

頼朝が最も信頼した一族といえば妻の実家である北条氏と思うかもしれないが、実際は乳母の実家である比企氏であった。 平安時代から鎌倉時代は乳母の力が強い時代でした。 ひいては女性の力が強い時代だったのです。

【頼朝の懐刀】梶原景時〜頼朝を最も理解した男、後ろ盾を失い没落

『愚管抄』に「鎌倉の本体の武士」、源頼家の「一の郎党(第一の側近)」と記された梶原景時は、源頼朝には最も信頼された臣下だった。 「懐刀」と言ってもいい存在だった。

【源氏の宿老】足立遠元

足立遠元は源義朝ー頼朝ー頼家ー実朝と4代にわたって仕えた。 安達盛長の甥にあたるが、年齢は上であった。

【流人時代からの頼朝の忠臣】安達盛長

京都の二条院に「無双の歌人」といわれる女房がいた。惟宗広言という歌人と通じて、子を1人生んだが、別れ関東へと下った。 関東へと向かった理由は、両親・一族がいるからでもあり、母が支援する源頼朝がいたからでもある。

【対朝廷-交渉人】中原親能

中原親能の父・中原広季は明法博士である。 貴族の下級官僚の子であった。 弟には後に鎌倉幕府で共に勤める、大江広元がいる。

【幕府の知恵袋】大江広元〜子孫は戦国最高の知将・毛利元就

鎌倉の武士で、文書を読めるものは少なかったという。 そんな鎌倉武士を率いた、源頼朝の優れたところは、政権作り当初から文章作成を担える文官を京都の下級貴族からスカウトしていた事だ。 彼らのことを「京下貴族」ともいう。

【鎌倉】13人の合議制。構成メンバーの顔ぶれ

将軍として力を奮い「独裁者的な」源頼朝が急逝しました。 その鎌倉殿の地位を継承した当時、まだ18歳での源頼家から、その力を剥奪するために、重臣たちの合議制(13人の合議制)で幕府を運営する事を決めました。 そのメンバーが13人、