頼朝の乳母たち
源頼朝には複数の乳人がいたことがわかっています。
比企尼、寒河尼、山内尼、三善康信の伯母にあたる女性の4人です。ただ三善康信の伯母は前の4人の誰かと同一人物ではないかとも言われています。
※あと摩々尼という乳母もいたといいますが、あまりはっきりせずに山内尼と同一人物とも言われています。
この乳母の多さからも頼朝が、嫡男であり、いかに父・義朝から大事にされていたかがわかります。
比企尼は、比企掃部允遠宗の妻で、頼朝にとっては孤独な流人時代の20年間を支え続けた、最大の支援者です。
京都にいた比企尼は、頼朝が伊豆に流罪にされた時、武蔵国の比企郡を請所として、夫と共に比企郡に移り住み、夫は途中で亡くなりましたが、頼朝の流人生活が終わるまで仕送りを続けます。
ちなみに請所とは年貢の納入を定額で請負った土地の事です。
さらに3人の娘がいて、それぞれに迎えた婿に頼朝を支えさせます。
長女の丹後内侍には、小野田盛長(のちの安達盛長)
次女の川越尼には、川越重頼(のちに源義経の舅となり、のちに誅殺されます)
三女には伊東祐清。祐清死亡後は、源氏一門の最上席、平賀氏の当主・平賀義信です。
さらに比企尼にとっては甥で養子の比企能員は、2代将軍頼家の乳母父(めのと)で頼家の妻は能員の娘・若狭局でした。
何重にも深い縁で結びついているところを見ると、北条氏ではなく比企氏こそが、頼朝一家と最も近しい一族といえるでしょう。
寒河尼は、常陸の武士・八田宗綱の娘で、下野の最大豪族・小山政光の後妻となりました。
頼朝の9歳上という、歳の近い乳母で、お乳を頼朝にあげていたとはとても思われないが、姉のように接して頼朝を育て守っていたのだろうと想像できます。
頼朝が挙兵した時、夫の小山政光が大番役で京都にいたため、代わりに寒河尼は政光の末子を伴って頼朝に面会に行きます。
そこで頼朝は政光の末子の烏帽子親になります。
その子が後の、結城朝光です。
頼朝は文治3年(1187)12月、寒河尼に「女性たりといえども、大功あるによる也」として下野国寒河郡と網戸郡の地頭に任じ、寒河尼は女地頭になりました。
山内尼は、相模の武士・山内首藤俊通の妻で、経俊の母です。
子供の経俊は、頼朝挙兵時に、味方しなかったばかりか、挙兵を馬鹿にする暴言を吐き、石橋山の戦いでは頼朝に直接矢を向けています。
のちに経俊が捕われ斬罪になると聞いた、山内尼が助命を願うため鎌倉を訪れた。
頼朝は無言で石橋山で着ていた鎧を持ってこさせ、山内尼に示した。鎧の袖に立っている矢の巻口には経俊の名が記されてあり、尼は懇願できずに立ち去ったと言います。
だがその後、経俊は許され、伊勢と伊賀守護になる厚遇を受けました。
乳母の甥である三善康信は、流人時代の頼朝に月に3度の使者を送って京都情勢を伝えた人物で、鎌倉幕府の機関・問注所の初代執事となる人物で頼朝の信頼も厚いです。