2020-06-21 頼朝の源氏弾圧 源頼朝は弟たちだけではなく、同族の清和源氏一門にも妥協のない態度で接し続けた。 特に甲斐源氏の武田氏一門は、源頼朝に厳しい目を向けられ続けた。 武田信義とその子、一条忠頼、板垣兼信、武田有義らである。 続きを読む
2020-06-20 頼朝と義経と範頼 源義経はその軍事的な才能は、この当時では群を抜いている。 平家追討でも、最大の功績をあげている。 しかし兄の源頼朝との関係において、最もしくじっているのも義経だった。 続きを読む
2020-06-19 朝廷と距離を置き続けた、源頼朝 源頼朝は鎌倉に本拠を決めて、東国武士達を率いてから、朝廷に対して慎重な態度を取り続けます。 富士川の合戦で平家軍を破り、京へ進撃しようとしますが、関東に引き返す態度もそうです。 これは倶利伽羅峠の合戦で、平家軍を打ち破り、破竹の勢いで京を目指した源(木曽)義仲とは対照的です。 ※ちなみにこの2つの合戦の平家方の大将は平維盛でした。あまり関係ないかもしれませんが、触れておきます。 続きを読む
2020-06-17 頼朝政権の正当性の変遷 幕府というのは、もともとは「将軍が戦争の時に拠点とした陣営」というのは、前に記事で書いた事があります。 つまり将軍の御座所。住んでるところ。いる空間を指します。 続きを読む
2020-06-17 東国武士と源頼朝〜思惑の違い〜 鎌倉幕府は東国の、関東の御家人を中心とした政権で、最も重要な課題は、彼らの土地問題を調停、解決する事です。 それは御家人達の希望だったのです。 続きを読む
2020-06-16 「守護・地頭制」〜文治の勅許と政治家・源頼朝 守護・地頭制と一口にいうが、時代と地域によって役割はさまざまで、理解が難しい。 ただ所謂、「守護・地頭制」にとって、画期となったが、後白河上皇に源頼朝が強硬に要求を突きつけ、認めさせた、文治の勅許です。 続きを読む
2020-06-14 寿永二年十月宣旨 木曾義仲が平氏を追っ払い、京都に入ると後白河法皇は、平氏追討の院宣と平家没官領を与えた。 義仲は源頼朝に先立ち、京に入り有利な地位を占めたかに見えたが、平氏追討で失敗し、京での乱暴狼藉で孤立してしまっていた。 続きを読む