こだわり歴史塾

私が調べた人物の歴史を中心に、歴史の事を書いていきます。

亀の前事件

亀の前という女性は、良橋太郎入道という者の娘で、頼朝にとって流人時代からの愛人でした。

 

亀の前はどういう女性かというと、「顔貌の濃まやかなるのみにあらず、心操、ことに柔和なり」と記されています。

つまり顔は美しく、性格はとても穏やかな女性だったようです。

 

 

正室北条政子が、気象の激しい女性だったので、亀の前はそれとは全く反対の性格を持った女性だったようです。

 

頼朝は、正室の政子が妊娠している、寿永元年(1182)6月1日。流人時代からの側近、中原光家の館に愛人・亀の前を住まわせます。その後、伏見広綱の館に移します。

 

ところが政子にこの事を教えてしまう者が現れます。政子の義母の牧の方です。牧の方は北条時政の後妻で、政子とは義母と娘の間柄ですが、年は近かったと思われます。

 

この牧の方は、後年、梶原景時失脚事件の時にも告げ口をしていて、どうもそういう癖があったのかもしれません。

 

 

 

とにかく政子は頼朝の浮気を知って激怒します。

 

11月10日に義理の祖父で、牧の方の父・牧宗親に命じて、伏見広綱の館を叩き壊させました。

 

亀の前は伏見広綱に連れられ命からがら、鐙摺(あぶずり)の大多和義久の館に逃げ込み、なんとか難を逃れました。

 

その2日後、11月12日、頼朝は牧宗親を大多和の館に連れて行き、たくさんの人が見ている中、宗親を罵ります。

 

「御台所を重んじ奉る事においては、もっとも神妙なり。ただし彼の御命に願ふといえども、かくのごとき事は内々なんぞ告げ申さざるや。たちまちにもって恥辱を与ふるの条、所存の企て甚だもって奇怪なり」

 

つまり、「政子を大事に重んじている事は、いい心掛けだ。だが、政子の命令に従うと言っても、こんな大事な事、なぜ私に知らせなかったのか?すぐにも亀の前に恥辱を与える事は、何を考えてるんだ!」

と言って、宗親の髻(もとどり・髪を結っている部分、まげ)を切り落とします。

 

これはこの当時の、最大の辱めだったのです。切られた宗親は、泣き叫んだと言います。

 

 

 

 

この事に今度、怒ったのは政子の父親で、牧の方の夫で、牧宗親の義理の息子・北条時政です。14日に、鎌倉を引き払って伊豆に引き上げてしまいます。

 

 

頼朝は、妻の一族である北条一族が引き上げてしまった事に慌てます。

 

頼朝は、時政の子で頼朝の家子(側近)でもあった江間(北条)義時も一緒に帰ってしまったのかと心配になり、同じく家子だった梶原景季を義時の元につかわします。

 

義時は家子のトップともいえる人物でした。

 

だが義時は、父たちとは行動を共にせず、残っていました。

 

頼朝は義時を呼び寄せて、

定めて子孫の護りたるべきか」

つまり、「お前はきっと私の子孫を守ってくれるだろう」と褒めたのです。

 

 

結局、この事件はどう決着したのかは、はっきりしません。

 

 

伊豆に退去した北条氏もいつの間にか鎌倉に戻ってきていたと思われます。

 

そして渦中の亀の前は、12月10日、再び中原光家の館に入れられて、頼朝の寵愛はますます高まったといいますが、その後の亀の前はよく分かりません。

 

 

ただ可哀想なのは亀の前を庇護していた、伏見広綱で、12月16日に遠江国流罪になってしまいました。