正々堂々としていなかった鎌倉武士②〜那須与一の場合
屋島の合戦の名場面として、那須与一が扇の的をを射る有名な話があります。
話はこうです。戦いに敗れて海上に逃れた、平氏方の軍船の中から一艘出てきて、女房が扇を掲げました。
これは平氏方は一種の余興でしたが、そこには挑発の意味も込められています。
もしも源氏方にこれを見事にいることが出来なければ、面目丸潰れです。
選ばれた与一は、40間(約70m)先の的を見事に射落として、源氏の面目を守ったという有名な話です。
この話には続きがあります。
那須与一が見事に的を射落としたことに、平氏方の伊賀家員が感極まって、扇の的が落ちたところで、引立烏帽子を被り、長刀を振り回して踊り始めたのです。
これを光景をみた源氏軍は評定(会議)を行い、家員を射るべきかどうか相談し、射ることにします。
せっかく扇を射落とす事ができたのに、もしも家員を射ることができないとなったら、まぐれだと言われかねない、という理由です。
哀れな家員は与一に射殺されてしまいます。
ここにも西国と東国武士の違いが見られます。