都人の東国への偏見
『吾妻鏡』の"吾妻"とは古い言葉で、"東"のことを指す。
和歌で「吾妻」と使われれば、枕詞で「鳥が鳴く」と続きます。
では何故、鳥が鳴くなのでしょうか?
有力な説としては、東の方が西よりも朝を迎えるのが早いから、そして太陽が昇る方角だからしいです。
ただもう一つの説としてあるのは、都の人々から見たときに、「東人は何を喋っているのかわからない、まるで鳥がぺちゃくちゃと話しているようだな」という印象から、そうなったというのです。
京都の公家たちから、東国を見たイメージとは、そういう差別意識を含んでいたのかもしれません。
それを差し引いても、彼らに東国への知識があったとは思われません。
『拾玉集』にある、慈円と源頼朝の歌のやり取りをご紹介します。
慈円が、
あづまぢのかたに勿来の関の名は 君を都に住めとなりけり
と、詠んだのに対して頼朝が、
都には君に相坂近ければ 勿来駅関は遠きとを知れ
と、返します。
慈円の歌が、
「東国にある勿来の関という関の名は、あなたに都に住んだ方がいいよ、という意味でしょう」と頼朝に都に住むように勧めているのに対して、
頼朝の歌は、「都に近い逢坂の関は、あなたとまた近いうちに会えるでしょう、という意味です。でも勿来の関は私から遠いということを知っておいて下さい」と返しました。
勿来の関は奥州にあり、頼朝の支配する関東からも遥かに離れていた。
この和歌には、2人の地理感覚のズレが現れています。
慈円は当時としては最高レベルの知識人です。
その彼でさえ、東国の地理に関しては、全く無知だったのです。
無知は、無理解で、偏見につながります。
ほかの都人たちは、推して知るべきでしょう。